人生の目的とデザインの関係性について考えてみたい(私?編)

どうも、パソコンはWindows、スマホはAndroidの人です。
ちなみに、タブレットはiOSのiPad。
Appleに統一したいと思ったこともありますが、やはり使い慣れているものが一番です。

さて、なんだかんだでシリーズになっている「人生の目的とデザインの関係性」について。
前回は、人生の目的もデザインも「無私であり、無私でない」という状態が関係しているのではないか、というところで面白いなあと思いました。

人生の目的とデザインの関係性について考えてみたい(過程編)

今回は、「無私であり、無私でない」とは、どういうことかを考えてみます。
無私とは、「私」というものが「無」いことです。
私が無いことであり、私が無いことでもない。
・・・わからんな笑。

私って何ぞや、という問題。
仏教では、私が私と感じているものはウソであると言います(田崎史乃の勝手な解釈の可能性あり)。
つまり、私なんてものは存在しておらず、ただ世の流れの中で生じているものなのです。
私はそれを私だと思い込んで、喜んだり不安になったりしています。

確固たる私は存在していません。
常に変化し続けている世と同じく、常に移ろいゆくものを仮に「私」としているだけです。
私のものと思われる肉体もまた、常に変わっていくものです。
だから、「これが私だ!」と言えるものは、どこにも「無」いのです。

・・・そんなこと言ったって。

私は自分の意志で動いているし、現にこうして考えながら文章を書いているわけだから、「私」が「無」いってことはないんじゃないか?

ですよねー。

「無私であり、無私でない」
この問題の注目すべきところは、「私」をどこに置いて考えるか、ということです。
つまり、たった一つの存在として考えるのか、全宇宙の一部分として考えるのか。

・・・何だか壮大な話になってきました。

ちょっと時間を置きましょう。

つづく。

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